あの生徒はいま / 顔の見える支援

知らない人に「ハロー」と言えますか?~私たちは村という共同体の一員であるということ~

投稿日:2017年9月6日 更新日:

みなさんこんにちは。インターン生の本多です。

今日は村で生活してゆく中で感じた、村ならではの人と人との距離の近さについてお伝えしたいと思います。

村で生活を始めた時に驚いたことの1つは、村での人と人との距離の近さでした。

私たちが市場まで行こうとしていると、たくさんの子供達がこちらに気づいてハローと大きな声で挨拶をしてくれます。

また子供達だけでく、大人たちもハローと声をかけたり、目を合わせてニコっとしてくれたりします。

またこないだは、市場まで歩いていっていたら、包帯で覆われた左肘を見て、どうしたの〜?と声をかけてくれるおばちゃんたちもいました。

村での生活に慣れてしまうと、このようにあまり知らない人でもニコニコして挨拶をする、と言うことは当たり前に感じてしまいますが、日本での自分の生活を考えると当たり前ではありません。

私が日本で生活している際は、知らない人=他人として自分の中で勝手に線引きをして、距離を作ってしまいがちでした。

家の近くでも、電車の中でも、出かけている時も、知らない人に挨拶をすることほぼほぼありません。

ましてや、近くの家の人が腕に包帯をしているのを見て、どうしたんですか!と心配することなんてもってのほかです。

日本にいたときは当たり前でしたが、今日本の生活を考えてみると、自分の選んだ人と話さない関わらないという、ある意味狭い世界で生活していたことに気づきました。

始め村で生活をし始めたとき、なぜこれほどまでに人と人との距離が近いのかと疑問を持ちました。

カンボジアの人特有の人懐っこさなのかな、と思い納得していましたが、最近になってなんとなく1つの答えが出た気がしました。

共同体の一員であるという意識

それは、私たちが生活している村では、知らない人でも村という1つの共同体の一員であり、他人として知らない人を排除しないという意識が働いているのではないか、と考えました。

だからこそ、私たちのようなよそから入って来たものも排除しようとせず、共同体の一員として受け入れ、むしろ声をかけてくれたり、立ち話してくれたりと、歓迎ムードで迎えてくれているのかもしれません。(そこには今までCBBを作られて来た方が村の方々と友好な関係を築いて来た、というたくさんの努力もあるとは思いますが。)

この村の共同体としての意識や人と人の距離の近さは、日本ではもともとあったのに薄れて来てしまっています。

もしかしたら、どんどん発展を遂げ人口集中したりして、人と人との物理的な距離が不本意に近くなってしまうと、自分のパーソナルスペースを乱す他者を無意識的に無視したり、気にしなくしたりすることで、心理的な人と人との距離が遠くなってしまうのかもしれません。

村の人達には、便利で苦労のない生活を送って欲しいと願いますが、その一方で今ある人と人との大切な触れ合いを忘れないで欲しいな、と思うばかりです。

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