こんにちは。合同インターン生の田中です。
何度村に帰ってきても、やはり3.4日ぶりにみんなに会って、おかえりー!と言われるのは、毎回嬉しいです。
今回は少し暗い話になってしまいそうです。。。
最近、日本人がみんなに日本語を教えることが、みんなの道を拓く最善の方法なのか、わからなくなってしまいました。
日本語を教えることでみんなが復学に近づけるのだろうか?
それよりも、現地の人がその子の苦手な教科を、現地の言葉で教えたり、
経済的に受けることのできない、エクストラクラスの授業を補ってもらう仕組みをつくったりする方が良いのではないか?と考えてしまうんです。
この記事の目次
2日前の夜のこと。
ここ最近、どこか様子がおかしいなと思っていて見ていた、住み込みの最年長ダエンから、何時に勉強しますか。とメッセージがきたので、
「大丈夫?元気ですか?」と聞きました。
すると、「みんな、たいへん。」と。
「なにが たいへん?」と聞くと、
にほんごむずかしい、と返ってきたので、クメール語でも大丈夫だよ、と返すと、
要約すると、
「昨日の夜、他のみんなが携帯を見てばかりでごはんの準備を一緒にしようとしなかった。もうみんなと一緒に住みたくない。家に帰りたい。」
と。。。
私からも、みんなに協力してつくるように言うよ。私は5人みんなと住みたい。と伝えました。
この時、いろんな考えが頭をよぎりました。
もちろん、手伝わないみんなが悪いのですが、ダエンも最年長。
厳しいことかもしれませんが、自分が逃げる道を選ぶのではなく、みんなをどうにかして巻き込んでいこう、と思ってもらいたい。と個人的に感じました。
日本語を学ぶことも大切に思ってくれているのだとは思いますが、みんなとのいざこざで、本来の目的、学ぶこともあきらめてしまうの、、、?と正直感じてしまいました。
自分の役割
それは自分のしている授業に、少しでも原因があると思います。
自分のクメール語や能力が足りないことによる、質が高いと決して言えない授業。言語以外でみんなに、生きていく上で大切なことについて教えられないこと。伝えられないこと。
だから、こんな風にいざこざが起きてしまっていた。
このまま私が日本語を教えた先に、果たして子どもたちの道は拓けていくのだろうか。
ここで、クメール語が本当にわずかしかできない私が教えて、何か意味はあるのだろうか。
そんなことをぐるぐる考えてしまいます。
プラスの考えも、マイナスの考えもありますが、これは私の成長の機会でもあります。
みんなにも成長してもらえるよう、誠心誠意、みんなにとにかく、本気でぶつかっていきます。
暗い話題になってしまいすみません!チョムリアップ リア!