国内だより

みんなが幸せになる支援・協力のあり方

投稿日:2016年6月3日 更新日:

法政大学3年の柳田和哉です。いつもお世話になっております。

 

CBBは、「すべての子どもたちへ教育へのフリーなアクセスを」を理念に掲げて活動しております。現在、最も力を入れているのはCBBスクールというプロジェクトで、カンボジアの農村で子どもに日本語と英語を教えるものです。

 

CBBスクールは、当初はCBBの理念どおりに、貧しくて学校にまともに通えていない子どもや、通学や学習に困難を抱えている子どもに学びの機会を保障したいという思いで産まれたプロジェクトでした。

しかし、開校時はCBB側の都合で、貧困地域ではなく私たちの支援地である農村地域の中では比較的豊かなところで始めました。カタカナにするとパーブ、というところに学校を作ったのですが、現在はパーブ校も一時的に閉校を余儀なくされ、経費が今よりかからないチュンプレイというところに移転しました。

 

授業も、カンボジアの農村で日本語を教えることが子どもにとってどういうことなのか、私たちは何をしたいのかが詰められないまま、日本語を教えたり、日本文化を紹介したりしていました。

このように、CBBスクールというプロジェクトは、これまで非常に雑多なものになっています。

 

今年度新しく入会したメンバーを交えて、夏渡航時に実施するCBBスクールでの活動についての話をしていて、思ったことがありました。それは、私たちが「カンボジアの教育は遅れているんだから、問題を解決してよくしてあげなきゃね」と思っているのではないか、ということです。しかし、これはおかしいのではないでしょうか。

 

確かに、日本の教育制度は整っています。かつ、カンボジアは日本よりもずっと経済的な水準が低く、ポルポト政権の時代には知識人が殺され、大学で勉強をしようと思ったら英語を習得しないと文献が読めず、勉強できません。そういうことに関しては、遅れている面があるだろうと思いますし、日本が、CBBが支援すべきところは大いにあると思います。

 

しかし、私たちは、自分たちが受けてきた教育が極めて多くの問題を抱えていて、決して素晴らしい教育を受けて育ってきたとはいえないということを忘れています。

 

私たちは、「教育へのフリーなアクセス」を保障されて育ってきました。しかし、アクセスが保障されていても、教育の内容や環境が保障されていなければどうしようもありません。日本には学校が嫌で嫌でたまらなくて不登校になる子どもが大勢います。彼らは「フリーなアクセス」をすすんで放棄しています。

 

自分たちの受けてきた教育や、それを受けて育ってきた自分たちをまじまじと見つめ直したときに、本当にカンボジアの教育は遅れていて、日本の教育は進んでいると言えるのでしょうか。

 

カンボジア写真2

 

ところで、教育の目的とはなんでしょうか。私は、突き詰めれば教育を受ける人が幸せになることだと思います。仮にそうだとすると、日本の教育を受けた日本の若者とカンボジアの教育をうけたカンボジアの若者のどちらが幸せでしょうか

私は、カンボジアの学生の方がニコニコしており、日本の学生のように将来へのいわれのない不安に駆られて暗い気分になることもなく、揚々と過ごしているように感じました。仮にそうだとすると、カンボジアの教育は日本の教育よりも優れていることになります。もちろん、教育だけで「幸せ度」が決定されてしまうわけではありません。ですが、教育意外の分野でだって、日本の方がずっと先進的で、制度も整っています。それでも、カンボジアの若者の方が楽しそうでした

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私たちは、しばしば「カンボジアは教育水準が低いからカンボジア人は学力が低いだろう」とか「こんなこともわからないのか」とか思います。私も、大学生のカンボジア人の友だちが「オリンピックって何?」と言ったときに、「ああ、教育水準が低いってこういうことなのか」と思いました。

しかし、考えてみればすぐわかるように、オリンピックを知らなくても誰も不幸になりません。私たちはオリンピックをテレビでみるのを楽しみにしていますが、彼らだって地元のボクシングマッチを観戦したり、サッカーをしたりしてスポーツを楽しんでいます。農作業にも慣れているので、ヌクヌクしている日本人より体力もずっとあるでしょう。農村では、平らな赤土がどこまでも広がっているので、サッカーもバレーボールも鬼ごっこもし放題です

他方で、私たちは彼らのようにてきぱきと農作業をしたり、籠を編んだり竹を素早く切ったりできません。もしかしたら、彼らもそんな私たちを、「こいつら、カンボジアの農村じゃ生きていけないな」と思いながら眺めているかもしれません。そういう、身体を使った技術も、生きるために必要な知恵です。私たちにとっては、オリンピックについての知識や、ペーパーテストの学力が生きるために必要な知恵なのかもしれません。

 

生きるために必要な知恵は、みんな違うのだと思います。自分が生きるのに必要だと思うことを相手が持っていないから「何かしてあげなきゃ」という気持ちになったりしますが、それが必ずしも相手にとっても必要なこととは限りません。

そういうことへの自覚の不足が、ある面ではCBBスクールの活動の問題点にも繋がっているように思いました。

 

既に書きましたが、私たちはしばしば「助けてあげなきゃ」「支援しなきゃ」と考えます。相手のためになること=人助けをしたい、そういう思いでいます。

 

CBBスクールでも、日本語能力検定の資格をとらせようとか、日本のよさを知ってもらおうとか、日本料理を味わってもらおうとか、そういうことをよく考えます。しかし、私たちがカンボジアのよさをもっと知ってもいいのではないのでしょうか。あるいは、私たちが日本の教育の悪い点を、カンボジアの教育やしつけのいい点から学んで、改善したりしてもいいのではないでしょうか。

 

支援をすることで困っているカンボジア人を助けるのも、国際協力のひとつの重要な側面だと思います。しかし、私たちが最も力を発揮できるやり方は、一方的な支援ではなく、お互いがお互いのいい点を生活や習慣に取り入れたり、私たちがそれを日本で活かしたりすることではないでしょうか

 

私たちは、支援をしようというとき、自分を「支援する日本の人」としてみているんじゃないかと思います。その自分は、困っているカンボジア人を助けるための、強い人です。同時に、助けようとするカンボジア人も、「困っているカンボジア人」としてみてしまいがちです。

しかし、現実に関わり合うのは、22歳のケイさんや、20歳のシュンくんであり、支援の対象は15歳のワットくんであり、19歳のソムオンくんです。みんなそれぞれに困っていることがあり、得意なことがあり、自慢したいことがあります。

 

一方的な関係の支援ではなく、お互いに手伝えることがあれば手伝い、相談し、いいところがあれば盗む、そういう双方向的な関係が、いちばんみんなが幸せになる支援、協力のあり方なんじゃないかと思います。

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